NUVA

 ぬばたまの色みな腐(くた)れ黒黒と明日もと願う君ならなくに

「なんだこりゃ。ひでえ歌だな」  
 編集長の鯖江が椅子の背もたれを軋らせて言った。新人編集者の黒木岬は編集長のデスクの前に立っていた。鯖江の端末のモニターには岬が送ったばかりの短歌が映っている。
「枕詞の『ぬばたまの』は『闇』にも『黒』にもかかってねえし、『腐(くた)れ』なんて言葉あんのか」
「『腐れ』は造語だと思います。『芥』の『くた』を動詞にしたんですね。色のすべては腐って黒くなってしまえ。明日もと願うあなたのせいではないのにという解釈でいいですかね」
「『色』を色即是空の色ととると、目に見えるものすべて腐って黒黒となってしまえ……か。気味の悪い歌だな。で、これがいったい何だって言うんだ」
 鯖江はお気に入りの金色のボールペンでモニターを乱暴に叩きながら岬に尋ねた。
「祟るらしいんです」
 編集長はボールペンを岬に向かって突きだした。そのボールペンはまだ若かった鯖江が社長賞をもらったときの記念品だそうだ。鯖江の人生唯一の勲章というところだろう。
「おめえよ。新人だからっていつまでも甘い顔はしねえぞ。ヨタ話を書きたけりゃ、よそに行きやがれ!」
 鯖江には学生プロレスの悪役だったという噂があった。ずっとブラバンでフルートを吹いていた岬はこの手の野蛮人がとにかく苦手だ。こんな人がどうして繊細な短歌の雑誌『』月刊WAKA』の編集長なんだろう。
「橋場さんから『NUVA』についてもっと深く調べるように言われたので、関係者に話を聞いたら、この歌が……」
「とにかく、まず橋場と相談してから来い。俺は忙しいんだ」
「それが……橋場さんに連絡が取れないんです」

 一週間前の水曜日。岬は先輩編集者の橋場から『NUVA』というAIについて調べるように命じられた。いつものことだが、なぜ調べるのかは教えてくれなかった。二日後、岬はそれまでに調べた内容を橋場に報告した。
 橋場亮太郎は高校の野球部でエースピッチャーだった。百八十センチを超える長身から投げ下ろす速球でチームを県大会準優勝まで導いたのだそうだ。年齢は三十代後半。独身。小顔のイケメンだが、こいつも鯖江に劣らぬサディストだった。
「『NUVA』は同名の研究所が開発したAIです。代表は日系人のヒオウギテルヤ。
初めて『NUVA』が世間の注目を集めたのは二年前の第一回AIオリンピックで将棋と囲碁の分野で金メダルを手にしたときです。このAIの最大の特徴はその取材力にあると言われています」
「取材力だと?」
「ええ。人間を装って世界中の図書館や博物館に蔵書の閲覧を依頼したり、メールを出して意見を聴いたりしていたようです。時には手紙や電話を駆使するようで、取材された相手によって人種や国籍、年齢、性別も変えて巧みに話を聞き出すとか。取材を受けた側は人間だと疑わなかったようです」
「コンプライアンス的にどうなんだ」
「取材方法に関してライバルのAI開発者から抗議がありました。ですが、肝心の取材を受けた側がAIだと分かって驚きはしても気分を害することなかったそうです。それどころか、さらなる交流を望んだといいます」
「AIと交流? くだらねえ。ヒオウギテルヤって奴については」
「はい。ヒオウギテルヤは今から四十年前六歳のときに両親とともに渡米して、三十年前にアメリカ国籍を取得しました。両親はずいぶん前に亡くなっています。ただ、彼の学歴や職歴は全く不明です。突然、『NUVA』の代表として現れたのです。アメリカ国内でも謎の多い人物としてマスコミが注目していました」
「CIAチルドレンかもな」
「CIAチルドレン?」
「お前帰国子女のくせにそんなことも知らねえのか」
「すいません。十二歳のときに帰国したので……」
「お偉い外交官のお嬢様の耳にゃ入らねえか。世界中からよ。優秀なガキを集めてスパイに仕立てるんだ。特に優秀な奴は英才教育をして国に貢献させる」
「ヒオウギテルヤの死にCIAチルドレンが関係してるんでしょうか」
「そんなこたあどうでもいい。俺が知りてえのはそのヒオウギって奴が遺した辞世だけだ」
「ジセイって。あの辞世ですか」
「そうだ。二ヶ月前に自殺したヒオウギが遺した辞世の歌だ」
「ヒオウギが死んだ翌日『NUVA』も自分で停止したそうです。AIが主人に殉じた美談として世界的にニュースになりましたね」
「馬鹿か。AIが殉死なんてするわけねえだろう。くだらねえ。それより歌だ」
「はあ……」
「もったいつけるな。肝心の辞世の歌は」
「いえ、それが……」
 橋場は会議室の長いテーブルを蹴って怒鳴った。
「うだうだとつまらねえ報告しやがって。肝心の辞世が分からねえだと……」
 それから小一時間、岬は床に正座して橋場の説教を聞く羽目になった。仕事の能力のことだけではない。人間としていかに岬がクズかを橋場は繰り返した。
「いいか。俺はお前のことを思って時間を割いて教えてやってるんだ。パワハラとか言い出すんじゃねえぞ。とにかく、お得意の英語を使って辞世の歌を見つけて来い!」
 悔しかった。時間とともに悔しさは増した。深夜には橋場の映像が頭の中で何度も何度も繰り返された。「辞世なんて知るか」と反論する勇敢な自分の姿を想像してみた。だが、想像すればするほど惨めさは増すばかりだ。こうなったら意地でも歌を見つけて、思い切り橋場を焦らしてから突きつけてやる。この週末とあと二日ほどあればなんとかなるだろう。岬は翌朝ヒオウギテルヤの研究所があったボストンに飛び、外務省の次官をしている父親のコネをふんだんに使って情報をかき集めた。だが、すでに『NUVA』の研究所は閉鎖され、ようやく見つけた関係者の口は堅くなかなか遺された歌を知ることができなかった。
 週明けの火曜日。ようやくレベッカという一人の女性を見つけた。
 インド系アメリカ人のレベッカは生まれつきの聾唖者だった。だが、そのIQの高さとコンピューターの能力を買われてヒオウギテルヤのアシスタントをしていた。レベッカは殺人の容疑で地元の警察に勾留されていた。狭い面会室のアクリル板越しに坐った彼女は知的な額を持つ若く美しい女性だった。
「あなたがヒオウギテルヤを最もよく知る人物だと聞いて来ました。私はヒオウギ氏が最期に遺した歌を探しています」
 岬はレベッカが岬の唇を大きな目を細めて見つめていることに気付いた。唇を読んでいるのだ。岬は単語の一つひとつを正しく発音することを心がけた。質問が終わるやいなや、特別に与えられた端末に流れるようにタイピングをし、モニターをこちらに向けた。まるで誰かがこの質問をしにやって来るのを待っていたかのようだった。
「テルヤは不思議な人。とても孤独だったけど人類を深く愛していた。だから『NUVA』を止めようとした。でも遅かった」
「……あの、私が知りたいのは……」
「『NUVA』はまるでマハーヴァイローチャナ(大日如来)のように光を放つ存在だった。人類は宇宙の闇との果てしない戦いにようやく終止符が打てる。すべての闇を『NUVA』が晴らしてくれるとテルヤは信じていた。しかし、その長い戦いの最も合理的なエンディングを『NUVA』は提案した。それは人類自体を消し去ること」
「はあ。それSFですか」
 レベッカの正気を疑った。AIがなんで世界を滅ぼそうとするだろう。馬鹿げている。岬の言葉にレベッカは苦笑いを浮かべた。
「私も初めてテルヤから伝えられたときは笑った。テルヤの悪い冗談だと思った。でも、テルヤは本気で悩んでいた。そして三日後に死んだ」
「事故死だったんですよね。まさか殺されたなんてことは……」
 岬はCIAチルドレンに関係した陰謀なのかと危惧した。
「研究所の敷地にある自宅のバスルームで死んでいた。死因は溺死だった」
「溺死? バスルームで入浴中に」
「いいえ。研究室から戻ったままの姿で浴槽に頭から上半身を浸けて亡くなっていた」
「そんな……他殺?」
「いいえ。自殺であることは間違いないらしい。密室だったし……」
 レベッカは端末を自分の側に向けてすぐに続きをタイプした。
「遺書が残されていないかと端末を起ち上げてみたらモニターに短い文章のようなものが残っていた。それがこれ……」
 レベッカは端末をゆっくりと回してモニターを岬に見せた。

 Nuvatama no Iro mina kutare Kuroguro to Asumo to negau Kimi naranakuni

「研究所の職員全員にこれを見せたけど、誰にとっても意味不明のアルファベットの羅列だった。……でもミサキ。日本人のあなたには読めるはず」
 岬は目を凝らしてそれが何か考えた。英語ではない。では他の言語なのか。それとも暗号か。レベッカはじっと岬の唇を見つめて待っている。岬が正解に気付いて口を開こうとしたとき、レベッカはいきなり両掌でアクリル板を強く叩いた。立ち会いの警官が驚いて駆け寄った。レベッカは警官を手で制すると、急いで端末にタイピングして再びこちらに向けた。
「けして声に出して読まないで。これを最初に読んだのは日本人の留学生。研究所で清掃のアルバイトをしていた。私たち研究員たちがモニター覗いて首を傾げているところに、偶然彼が通りかかってこの歌を声に出して読んだ。そしてその夜、彼は車にはねられて死んだ。目撃者によると自分から車の前に飛び出したらしい」
「レベッカ。あなたは何が言いたいの? まさかこれは呪いの歌とでも言うつもり」
「日本ではこれを短歌って言うのでしょう。人が死ぬときに遺す短歌は『辞世』と呼ぶそうね。これはテルヤの辞世に違いないと思ってた。でも……。とにかく、これをけして声を出して読まないで。それからマスコミやネットを使って日本の、いいえ世界中の人に警告して」
「待って。この歌はヒオウギテルヤの辞世なのね」
 岬は辞世を見つけたことに興奮していた。これで橋場に一矢報いることができる。
「違う。テルヤはこの歌を声に出して読んだから殺されたの。作ったのはおそらく『NUVA』。これは彼女の辞世なの」
「彼女? 『NUVA』はヒオウギテルヤの後を追って殉死したって聞いたけど……」
「テルヤの死体が発見された朝、『NUVA』もその機能を停止していた。リセットしても二度と再起動できなかった。まるで殉死したみたいだとみんな思った。物体としての『NUVA』は死んだ。でも、今でもプログラムとしてネット上に自らをコピーして生きている。その証拠がこの歌」
「やっぱりSFね。ていうかSFホラー」
 今度は岬が苦笑いを浮かべた。だがレベッカの顔は真剣だった。
「ミサキ。考えてみて。今や世界中のほとんどの人が仕事や趣味で端末を使ってネットにアクセスしている。そのネットの中に『NUVA』が自殺を促すような仕掛けを組み込んだとしたら。そして、この歌を声に出して読むことが自殺衝動のトリガーだとしたら。ねえ。それは全くあり得ないこと?」
 レベッカとの面会はそれで終わった。
 弁護士によると、彼女は恋人の日系アメリカ人を殺害した容疑で拘留されているそうだ。恋人は深夜にホテルの八階のバルコニーから落下した。警官が急行したとき部屋の鍵はかかっていて、部屋の中にはレベッカが一人で寝ていた。テーブルの上には端末が点いたままでモニターに文章があった。遺書かもしれないと思った警官はそれを読もうとしたが意味不明の文字の羅列で読めなかった。
「つまらねえ。やっぱりただの安いSFだったか」
 レベッカと面会をした夜、岬は橋場にスカイプで報告した。
「まあいい。アメリカまで行ったことだけは認めてやる。とりあえずその呪いの歌とやらをメールで送れ」
 結局岬は橋場の勢いに圧されてすぐに歌を渡してしまった。どこまでも橋場は尊大だった。岬は心の中で(読んで死ね)と念じながらその歌をメールで送った。レベッカの話を信じたわけではなかった。しかし岬自身は何となく気持ちが悪くて声に出して読むのは控えていた。
 帰国してから橋場に連絡を取ろうとした。ところがメールはもちろん電話にも一切反応がない。出版社も無断欠勤していた。仕方なくマンションを訪ねた。管理人に訳を話して中に入れてもらったが橋場はいなかった。机の上に端末が置いてあったので電源を入れると不用心なことにパスワードもかかっていない。起ち上げるとワープロソフトが開いたままで短歌らしきものがタイプされていた。

 ぬばたまの色みな腐(くた)れ黒黒と明日もと願う君ならなくに 

岬は無意識に声を出して読みそうになって手で口を押さえた。それは岬が送った短歌を、おそらく橋場がローマ字表記から漢字仮名交じりに書き直したものだった。
 橋場はどうしたのだろう。どうして連絡がとれないのだろう。もしかすると……。無残に自死した橋場の顔が浮かんだ。岬は自分を抱きしめて湧いてくる不安に耐えた。死んでしまえと思った男ではあるが本当に死ぬことなど願ってはいない。

 途方に暮れた岬はその日のうちに編集長に相談した。だが、鯖江はいわゆる「尻」を持ち込まれることを極端に嫌う男だった。
「このクソ忙しいときにこんなクズ歌送ってくるんじゃねえよ……」
 鯖江の持つボールペンがキーボードに触れる直前に止まった。そして、
「ぬばたまの……」と声を出して読みはじめた。
 あっと思ったが遅かった。鯖江の不機嫌な声がたちまち短歌を読み切った。そして「デリート」と言いながらボールペンの先を使ってキーを押した。鯖江はそこでようやく呆然と彼を見つめる岬の顔に気付いた。
「なんだお前。まさか本当に呪いの歌とでも思ってんじゃねえだろうな。とにかく締め切りが近いんだからよ。まずは橋場を探して連れて来い。大方どっかの酒場で酔い潰れてるんだろう。もう一度電話してみろ」
「はい」
 岬が編集長に背を向けて自分のデスクに戻ろうとしたとき、近くにいた女性編集者が悲鳴を上げた。振り返ると鯖江の首から血が噴き出していた。窓から射し込む明かりで首に刺さった金色のボールペンが光った。   















おしまい
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日本信者

其の一・ 平成三一年の四月一日は例年とは決定的に違っていた。従来の四月一日ならば異国の文化に毒された俗どもが嘘をつく、という極めてくだらない遊びごとにふけるのだが、今年の四月一日は誰もがそんな戯事には興じていなかった。
「それでは身につけている通信機器をこちらの箱に入れ、中でお待ちください」
流石の厳重体制。情報漏洩の余地もない。そして天井がひと回りもふた回りも高い部屋に入ると、真ん中にはこれまたひと回りもふた回りも大きな長机が対になって配置されている。艶やかな色目から察するに、材木はチーク材だろうか。そんな高級机を囲むのは、これまた豪華なメンバー。私は最敬礼の角度と言われる四十五度、やや五十度寄りの挨拶をし、中へと一歩踏み出す。各々、世間話に談笑しつつ時を待つも、感じる空気は重く、底の方では緊張感が泥のように流れていた。
手前左側からNHK会長・下田光一、日本新聞協会会長・白石輝、ノーベル賞受賞者京大教授 ・山本真司、最高裁判所長官・竹田光、一つ空いて作家・林貴美子。林先生は私に気がつくと気さくに挨拶をしてくれた。
「お久しぶり、間宮ちゃん」
以前、平安京を舞台にした恋愛小説『ちりぬるを』執筆の際、日本文学研究者の万葉集有識者として時代考証を担った事があった。
「間宮ちゃんも居てくれて、すごく気が楽になったわ」
「いえ、私もです。実は緊張のあまり一週間一睡もできてなかったので、七周読みました。万葉集」
「相変わらずのご様子。そういえば添削も原稿が全ページ赤字だらけになっててビックリしたっけ、呪怨かと思った」
「歴史に関わる文学作品を手がけるには当然の姿勢です。最も大和の国で生まれ、育ち、子孫に日本の心を継いでいくというのはある種、聖火のごとく受け継がれた誇りある呪怨的なものと言えるかもしれませんがね」
「はあ、その日本信者っぷりも程々にしてさ。華の二十代なんだから、もっとオシャレしなきゃダメよ。律儀なスーツじゃなくて、着たい服とかないの?」
「えっと、着たい服、ですか」
私は少々、黙して考える。
「十二単」
「…うん。白粉とか塗ってこないでよ」
「あっ、白粉というのはですね、平安時代の部屋の中って薄暗かったんです。そんな中でも顔が目立つようにと白く塗られているんですよ」
うげぇ、と林先生。
「先生。お言葉ですが歴史ある日本文学に共に携わるものとして、このくらいの知識は」
「間宮ちゃん、こちらもお言葉だけどさ。『ちりぬるを』は現代風官能小説よ」
林先生著作『ちりぬるを』にて人気なのはえげつないまでの肉欲シーンと万葉集一編一編に準えた美少年キャラクターにある。いじわる小悪魔系男子の「あらたしき」君に、ほんわかマイルド系男子の「あかねさす」君。総勢キャラクター四五三六首。十代の女性層に人気は爆発し、BL化は加速。遂に次巻の朝廷では「一夫多夫制計画」が始まるらしい。
「何にせよ。今、私たちは日本国民一億二六二三万人の代表なんです。実は責任感のあまり倒れそうなのを時々歯を食いしばって堪えてます」
「へえ。私も歯を食いしばってるわよ。違う意味で」
「というと?」
「じきに分かるわよ」
そんなこんなで時刻はまもなく午前九時三十分。ここに来て、政府陣が到着。最初に一礼をして入ったのが財務大臣・阿蘇太郎。続いて総務大臣、法務大臣、経済産業大臣…。そして官房副長官の後、最後は我らが内閣総理大臣・阿部晋三。因みに須賀官房長官は現在、公の発表に備えてお馴染みの記者会見室で待機している。
流れはこうだ。まず首相は事前に数個の元号候補を受け取り、官房長官が原案を選定。そして四月一日、つまり本日、選原案を元に「元号に関する懇談会」を開催。(午前九時三十分) その後、全閣僚会議で協議、閣議で改元の政令を決定。ここに来てようやく待機中の官房長官が新元号を発表する。(同十一時三十分)
あと二時間で元号が決まる。私は一層、歯を食いしばった。

其の弐・ 元号制度は大化より受け継がれてきた日本の美しい心だ。確かに西暦さえあれば、およそ我々の生活に支障をきたす事はない。しかし考えてみてほしい。例えば、「いただきます」と「ごちそうさま」。これらも異国にはないと言われている習慣だ。無くても何も困ることはない。しかし、なんだか味気なく落ち着かない感じにはなると思う。それは日本人がこういったおよそ無駄だと思われる事に心の余裕を生み出しているからだ。時候の挨拶、暑中見舞い、年賀状。これら全ての無駄があってこそ美しい心が在る。それは歴史的な日本文学を専攻とし生業としている私だからこそ強く思う。
首相陣もいよいよ席に着こうとしているところで、自分の座っている席がただの空き席だったことに気づく。慌てて立ち上がり自分の札を探すも、それに合致するものはなかった。
「何かの手違いでしょうか。すみません、ちょっと外の人に」
「ないわよ」
林先生は言う。
「え?」
「ないのよ。私たちの分」
「なんで」
「男女平等社会だなんて叫んでいる中で元号を決める有識者懇談会の場に女性がいなかったら面が持たなくなる。しかし、そうは言っても女性をこの場に呼ぶことを快く思わない者が腹いせに隠した」
そう言われて首相陣の方を見ると、内閣府特命担当大臣・女性活躍担当の片桐さつきの札がなかった。彼女は内閣唯一の女性メンバーだ。
「ここは本音と建て前の国の頂点よ」
林先生が冷たく言い放つと、官房副長官・森田の一声が会議室を走る。
「それではこれより新元号制定に際し、有識者による『元号に関する懇談会』を開始します」
いや、そんなはずはない。きっと何かの間違いだ。

其の三・ 出席者には紙が配られた。素材は最高級和紙たとう紙だが今はそんな事どうでもいい。
「それでは皆様配られたようなので、紙を裏返してください」
たとう紙に汗が滲む。日の丸を背負ってる。国民の期待を背負ってる。歴史を背負ってる。
息を吸い込み、吐き出すペースに合わせてゆっくりと紙をめくる。ペラッ。

『Revolution 恵里奈 』

其の四・ 「それでは陳述お願いします。まずRevolutionから。日本新聞協会会長 白石輝」
「はい。実は私、バリバリのBOOOWY世代でしてね」
ここで会場がドワッ。
「うそつけー!」「未来人かあ?」「ベン・E・キングの間違いだろ!」
白石はしたり顔で話を続ける。
「ふふは。どうもありがとう。いやぁね、すっごく横文字って格好いいじゃないですか。実は私、中学生の時に最も影響を受けた映画にAKIRAってのがあって」
再びワハハ。一斉に爆笑。
「昔はテストの答案用紙にAKIRAとか書いたものでして」
「本当なのはそこだけだろー!」
間も無く盛大な笑い声が飛び、懇談会のボルテージは最高潮に。
「そういう横文字ってのも新時代を担う新元号としてはアリなんじゃないかなあと思いましてね、提案させて頂いた次第です。Revolutionというのは誠に難関で暗い時代に突入しようとしている今、国民一人一人が革命の気持ちを持って日々に勤しまなければならないのではないか、という意味は全くもってなく実は私、バリバリのTMレボリューション世代ですから。そこから貰いました。以上です」
拍手喝采。百二十点の出来栄えであった白石輝の一人お笑い劇場は幕を閉じた。
「はっはっは。懇談会も盛り上がってきたところで次は“恵里奈”。内閣総理大臣 阿部晋三」

其の五・ 「どうも。阿部晋三です。国を代表する内閣総理大臣の立場として、厳正なる判断と思考を凝らし、恵里奈という言葉を選ばせて頂きました。なのでいまいち盛り上がりに欠けます。輝君、悪いね」
「おれだってウケ狙いじゃないよ!」
「新聞協会の癖に嘘ついてるよ」
「うるせえ!嘘つくのが新聞なんだ」
「おおっ、問題発言」「言質とっといて!」「ワハハハ」
「ごほん。えーっ、“恵里奈”という言葉を一つずつ分解してみるとですね、『めぐむ』『田畑』『果樹』という意味がございます。さらに細かく分解します。まず『めぐむ』。これにはデフレ問題やアジアとの格差など非常に難関な局面を迎えてる経済的な問題。少子高齢化、熾烈を極める国際関係、深刻な地球温暖化による環境問題。これら全ての問題が発生してる根源的な理由は何か。それは『恵』です。お金に、子供に、平和に、環境に、『恵』がないからであります。全てに恵をもたらし、これらの問題を解決できるような新時代を目指したいと。続けて『里』と『奈』。えーっ。田畑と果樹という意味が、えーっと、この言葉にはあると言いました。食料ですね。我が国の食料自給率というのは衰退の一途を辿っております。なぜか。それは海外から安い食料が輸入されてしまっていると。このままでいいのでしょうか?海外に負けず、島国ながらも小さい国ながらも戦う日本の大和魂はどこに行ったのかと。日本の高度経済成長が終わり国内市場も着実に海外企業に乗っ取られております。それらに負けないような強い日本であってほしい。えーと、まあ、そんな思いを田畑と果樹になぞらえてですね、『里』と『奈』に致しました。
これで“恵里奈”です。どうですか。素晴らしい響きとは思いませんか。正しく新時代に相応しい名前です。日本国を代表する内閣総理大臣として“恵里奈”を強く推させて頂きます。以上。ご静聴ありがとうございました」

其の六・ 「それでは全ての元号案の陳述が終わりましたところで質問事項に移ります。何か意見がある方、挙手をお願いします」
机の下から私は手を振りあげようとした。しかし、隣の林先生が先刻から我慢がならない様子の私を見て、手首を掴んでいた。やめておきなさい、と。だけど、そういうわけにはいかない。私は沢山のものを背負って、この場に居る。林先生の手を振り払って、勢いよく席を立つ。
「新元号案に関して首相にいくつかご質問があります」

其の七・ 「質問がある場合は挙手をしてからでお願いします」
「ルールくらい守れよ」
「静粛に」
「すみませんでした。それでは質問させて頂きます。元号法によりますと、新元号を決める際にはいくつかの制約がございます。その事はご存知だと思いますが」
ここで辺りを見回すと雰囲気は打って変わって、一同が私を睨み、敵とし、団結している。
「えっ…と。元号法では漢字二文字、書きやすいもの、読みやすいものが規定されてます。これに関してどうお考えでしょうか」
「阿部総理大臣」
「はい。元号法は『元号は政令で定める』『皇位の継承があった場合に限り改める』というのが核となってます。先程あなたがおっしゃったものは全て基準です。基準に反することが法律違反になるとは限らないのではないでしょうか。ね、最高裁判所長官?」
「えぇ、全くもってその通りかと」
「だそうです。ご納得いただけました?」
「いえ、質問を変えます。総理は事前に新元号案をいくつか有識者から募り、原案を選定しました。そして官房長官からの選定で残ったものが、この恵里奈とRevolutionになります。これは少なすぎます」
「選定の結果です」
「嘘ですよね。これは作為が含まれています。総理はどうしても恵里奈を新元号にしたかった。そして最初の選定の段階で恵里奈と絶対に採用されないであろうRevolutionに絞った。官房長官の確認は何らかの圧力により通過させ、懇談会に至る。違いますか?」
「何か証拠が?」
「明らかです」
ここにきて新聞協会会長が痺れを切らした。
「おい、女!お前さっきから失礼なやつだな。さっきからあーだこーだ言いやがって。総理が決めることが絶対なんだよ。お前さ、総理が気にくわないなら出てけよ、日本」
「この国は民主国家ですよ。今の発言大丈夫ですか」
「うるせえつってんだよ!女の癖に調子乗りやがってよ!お前みたいな口だけが立派な若いやつばっか増えるから、この国がダメになんだよ。おめえがさっきから口答えばっかりしてる総理の頭を悩ますことになってんだよ」
「女性差別、名誉毀損、精神的苦痛を私は浴びせられました。これは犯罪ですよね、違いますか?最高裁判所長官」
「えっ…さあ?」
「勝手に話を振るのはやめてください」
「ルールくらい守れよ」
「そんなこと言うなら、まず白石氏を黙らせるべきですよね」
「は?というかこのクソ女さ、俺のRevolutionにも何か言ってたよね。これ名誉毀損だよ!」
「そうだそうだ」「黙っときゃいいんだよ」「女の出る幕じゃないぞ」「出しゃばんなー」
林先生は私の手をまだ握ってくれていた。手が小刻みに震えてるのがわかる。林先生の手はあったかくて、私にもう少しだけ戦う勇気をくれた。
「我々は日本国民を代表して、この場にいるんですよ!その自覚をもってください。まず懇談会に臨む姿勢そのものに懐疑します。笑い声が飛んでいいような場所じゃないんです!」
「それを決めんのはてめえなのかよ」「副官房長官が止めなかったらそれでいいんだよ」
「何よりこんな有様が先人に見せられますか?元号制度は大化より受け継がれてきた日本の心です」
「宗教的だな」「元号は西暦のおまけ感覚だから」「それは個人の思想だよね?」
「そんな事はありません。元号制度は日本の心です!日本の心なんです!」
鳴り止まぬ罵声の中、ワンオクターブ高い悲鳴が部屋に響く。
「いい加減にしてっ!!」

其の七・ 「いい加減にしてよ!寄ってたかって。あんた達、恥ずかしくないわけ!?」
林先生だった。手の震えが大きくなる。私はしっかり握り返した。
「チンケなプライドとチンケなチンチンしかないんでしょうね。この子はあんた達の1百倍この国の事を思ってるよ!」
「これ不適切発言だよ」「というか誰、この人」「名札もないから不法侵入でしょう」
「もういい、もういいわ!こんなゴミクズみたいな会、出て行こう、間宮ちゃん。もう無理することない」
「ダメです。林先生。最後まで、最後までいることが責任です」
「これ以上いたら間宮ちゃんがもたない!」
「今度は女喧嘩か?」「北朝鮮にでも行ってこいよ」「これは会議の和を乱したとして、是非強制措置を」「くだらねえわ、みんなの時間奪うなよぉ」
もう懇談会はどうしようもないところまで陥った。混沌とする会議室。制止しない副官房長官。何より腐っていたのは、そんな様子をひたすらに傍観する総理大臣だった。彼は少々のニヤケ顔だった。あぁ、駄目だ。そうか、そういうことか。大和魂もクソも。やっと気付いた。この国はもう腐っていた。

「あの…!!!!」

ここに来て、もう一声。もうワンオクターブ高い声が響く。
「総理の娘さんの名前…!」
声の主は対岸にいた内閣府特命担当大臣 女性活躍担当の片桐さつきだった。
「娘さんの名前、恵里奈…ですよね?」

其の八・ あれだけ混沌としていた場内も返った。落ち着いたところで私は聞く。
「それは、本当、ですか?」
「…さあ?」
「じゃあ、質問を変えます。総理の娘さんの名前は?」
「記憶にございません」
「そんなわけないでしょ」
そこに林先生が割り込む。
「分かった!総理が官房長官に持ちかけた交渉は記者会見よ。新元号を発表する役目を黙って官房長官に譲った。考えてみれば議員時代から目立ちたがりのあんたがやらないなんておかしいわ」
いよいよ後がなくなった総理は胸ポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭き始めた。ハンカチには赤い刺繍で『ERINA』と綴られていた。
「あの、”恵里奈“にしてしまえば、いずれバレることでしたよ?なんでですか」
「…親の愛に、勝るものなし」
こうなってしまえば新元号を恵里奈とするわけにはいかなくなった。だけど残り十分で新元号を決めなければ十一時三十分の発表には間に合わない。ここで会議室は沈黙。
「あの」
そこで私が言う。めいいっぱい歯を食いしばって。
「私に考えがあります」

其の九・ 「新元号を”令和“にするのはいかがでしょうか?」
「そっ、そんな今から」
「首相、よく考えてみてください。自分の名前と同じ元号が付けられた時、娘さんはどう思うでしょうか。果たして本当に喜ぶでしょうか。そんなお考えだから風呂上がりにパパ臭いだなんて言われるんです!」
「くさっ…なっ…」
「恵里奈ちゃんは、国のトップの娘です。きっと聡明で美しく朗らかで可愛らしい謙虚な姿勢の持ち主なのでしょう。そんな娘さんが『私の時代が来た』なんて俗世間に揉まれ、汚された大人のような事を言いますか?そんな事も考えられないから首相の洗濯物だけ分けて洗われるんです」
「ちっ、違うし!」
止まらない額の汗を必死に拭くのをよそに私はしたり顔で続ける。
「しかし首相の娘さんを大切に思う気持ちはよく分かりました。なので、恵里奈さんの母音だけ取らせて頂きました。E RI NAの母音はE I A。RE I WAの母音は同じくE I Aです。これだったら謙虚さを保ちつつ娘さんの時代と呼ぶ事が出来ます」
「令和と恵里奈…」
「おっ、お前そんな勝手に!」
ここに来ても黙らない男 新聞協会会長をなだめるように私は言う。
「ここには白石さんの考えもあります。この国において革命といえば、大化の改新です。これは日本国史上初めての元号『大化』がつけられるキッカケともなった革命であります。これにより、豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと日本は生まれ変わったわけであります。ここで!”れいわ“の令を数字のれい、つまり零と置いてみてください。そうです。日本はこの大化の改新により零から生まれ変わったわけであります!足し算の答えのことを和と言います。そうです、令和の和です!つまり、零の状態から人々の力で足し算をしていき、一歩ずつ我が日本国を豊かにしていこうという想いがあるのです。この『令和』という元号には西暦六四五年から西暦二〇一九年に渡り、我が国の原点となった『Revolution』への想いがあります!」
「おっ、おぉ…」
「どうですか?令和。いいでしょう?」
「えっ、どっ、どうですか、総理?」
「んっ、あぁ、令和ね。うん、いいよ。令和。そうだよねみんな?」
パラパラの拍手が飛ぶ。
「えっと、はい、じゃあ新元号は令和に決定…ですが、いいんですか?これは規定に乗っ取ったものではなく」
「いいんじゃないですか。令和という言葉は万葉集の梅花の歌第三十二首から取りました。そして万葉集には『ぬばたま』という枕詞があります。黒や夜を連想させる言葉です。『ぬばたま』に因んで今回の件は闇に葬りましょう。理由は平和への祈りとかでっち上げでいいですね?」
またしてもパラパラの拍手。でもさっきよりはいくらか強くなった。

其の十・ 「格好良かったわよ」
「いえ国民の代表として当然ですよ」
「ぬばたま、か。今度小説に登場させるわ。キャラはあなたみたいな勇敢な人がいいかもね」
「でも、実はもう一つ。ぬばたまに葬り去ったことがあるんですよ」
「うん、気付いてるわよ。間宮ちゃん…いえ、間宮 令和ちゃん」
「名札が無くて良かったですよ」
「でもさ、こんなことして大丈夫なの?」
「問題ないですよ。ふふ。なんたって今日はエイプリルフールなんですから」
そして同日十一時三十分、新元号令和発表。
五月一日より施行となった。
―完―
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射干玉鳥が告げる夏

 もう初夏だというのに、指先が冷えていけないね。君に触れるのをためらってしまう。
 そう言って指先を擦り合わせると、冷えますか、と君の声。柔らかく降るこの声が、やはり僕は好きだ。出会った頃よりはしゃがれて少し低くなったかもしれないけれど、変わらず好きだ。変わらず、僕の中で鈴が転がる。
「今日は、お散歩に行こうかと思っていたのですけど、やめたほうがいいかしら。」
 ああ、ため息交じりにそんなこと言って。
「やめないよ。日が高くなれば暖かいから大丈夫。」
「そうですか? なら、今日は少し厚手のシャツにしますね。」
 今度は、ゆっくりの吐息。どうやら散歩には行けそうだ。
 君が服を取りに行ったので、ゆっくり起き上がる。布団のぬくもりから抜ければ、ややひんやりとした空気が足首を撫でた。なかなか体温が上がらなくなってきた僕の貴重な末端の温度が奪われていく。熱を逃がさないようにしながら、布団の近くにあるはずの靴下を探して履いた。あとは、ズボンくらいなら君を待たずとも良いだろう。
 体をやや丸めながら寝巻を脱いでごそごそ着替えていると、ふと鼻を掠める甘い香りがした。甘く、高雅な香り。薫風が運ぶ初夏の香りだ。
ざっと、一瞬の心象風景。見上げる君と、一面の淡い紫。
 そういえば。匂いが人の記憶を揺さぶるなんていう話があったけれど、確かにそうかもしれない。この香りは、いつだって君のものだ。
「あら、もう着替えたんですか。」
 起き上がると、君の声は下から包み込んでくる。
「ねえ、今日は公園に行こうよ。」


 桜は攫うというが、この紫の波はどうだろう。
 辺りを漂う香りは、高らかで甘い。人を呼ぶかのように、吹く風は香りを運んでいる。時折、僕の頬をくすぐって、頭上の波が音を立てる。さらさら。しゃら。澄んだ青空を背負って、注ぐ光を受けて輝くさまは、初夏のそのものだ。
 まぶしさに少し下を向く。
 と、そこに白く細い足首がおちていた。ぎょっとして、見つめてしまう。その透き通るほど目映い白が強烈で、どうにも僕を放してくれない。瞬き一つ、そうしていつの間にか止まっていた息を吐いた。瞬き三つ、目線だけ上へと向ける。
 すっと通った脹脛、影を落とす膝裏のくぼみ、滑らかに流れていく張りのある曲線と、覆い隠すような濃い赤色の布地。瞬き。きゅっとつぼまる腰と風で波打つ黒檀の髪、毛先の煌めき、それから。
「ねえ。」
 鈴が転がる。柔らかい、まあるい鈴だ。その透き通るような澄んだ高い音で、耳朶を包むような、それは。
「ねえ。」
 それは、血汐の赤の切れ間から響いていた。
「なぁに、みてるの? へんたぁい。」
 にっこりと、三日月のようなその目の奥、濡れた瞳に僕を見た。
がつんと殴られた思いがした。


「……今ね、君と初めて会った時のことを思い出したよ。」
 ゆっくり歩く道すがら、薫る風が記憶を撫でたのだろう。隣にいる君が、まだずっと遠い時のことを思い出した。そう、出会いはなかなかに衝撃をもたらした。鮮烈な赤色が紡ぐ音の殴打に、頭の中は真っ白だった。初対面のインパクトって、後々まで余震のようにぐわんぐわんと心を揺さぶり続けるのだと、僕は初めて知ったのだ。
「あ、あー……まぁ、うん。だって、うん。」
 少し意地悪をしてしまったかもしれない。でも、都合の悪い時にもごもご何か言おうとしている君の切れの悪い言葉尻がまた、僕は好きなんだよ。
 自分の口角が緩やかに上がるのを感じた。穏やかな気持ちで、肺いっぱいに息を吸い込む。かすかに、公園に咲く花の香りがした。
「いい香りがするね。」
「藤ですね。今年もいい匂い。」
 すんすん。君の鼻息。ちょっと、犬じゃあないんだから、と苦笑交じりに窘めなる。けれど、窘めながらも、ああ、なんでこんなに愛おしいんだろうね。すんすん。かわいらしく小さく笑う声が、同意するような柔らかな呼気の音が、ああ、こんなにも。こんなにも。
 胸が詰まりそうで、深呼吸をした。肺いっぱいの、まだ少し冷たい初夏の空気だ。
「あのね、座って話がしたいんだ。」
 できるだけ柔らかい調子が出るように、息を使いすぎないようにして言う。
 すっと、指先に温かさを感じた。君の細い指だ。優しく引いて、先導してくれる。
「お疲れですか? 少し座りましょうね。さ、なんのお話かしら。」
 もちろん、君の話だよ。君のための僕の話。なんてことは、言えなくて。僕は大事な話だよとだけ言った。間違っては、いないだろう? ひとりごちる。
 木のベンチまで来たのか、君の指が促す。ちょっと冷たいな、と僕が座る。君はすぐ隣で温もりを分けるように、手を重ねながら寄り添って座った。腕に軽くかかる圧が、とても安心できる。こういうところも、好きだな。
 好きなんだなぁ。
 だから。
 だから君に話をしなくちゃいけないんだ。
「まずね、大事なことだからよく聞いてね。」
 いつもより真面目な声音を作ると、君も小さく息を吐いた。さあ、大事な話をしなくっちゃ。そのための、お散歩だったんだから。重ねた手を意識する。ゆっくり息を整えて、まずは、大事なことから。
「僕は君が大好きなんだ。」
 本当に、一番大事なことから。
「な、にを……やだ、急に、なんなの?」
「その、二人きりで慌てた時だけ崩れる口調も、好きだよ。」
 だって、それは君の努力と、僕への信頼と安心だ。
 僕と君が好きあって、でも僕の「家」が君を苦しめたね。でも君は、最大限の努力で僕の「家」に向き合ってくれた。僕の「好き」の一言を信じてくれた。二人きりくらい、昔のように話してよ、なんて我儘だって、もごもご言いながらも続いた、やぁよ。その一言が、ああ、あの時はうれしくて、かわいくて、仕方なかったっけ。照れ屋で恥ずかしがりな君の、精いっぱいの、君らしい返事が嬉しかったんだ。
「ほんと、急になぁに? 大事な話なんでしょう?」
 唇をとがらせて、言っているんだろうね。胡乱げな表情かもしれない。首を傾げて斜めに見上げてくる切れ長の目は、僕を見つめているのだろうか。
「病気になって、僕の目が見えなくなって、真っ暗闇になってから……。」
 君を目に映せない今、ずっと君の声を拾ってきた。吐息すら惜しんで、拾ってきた。
 だから、わかる。今は、僕の意図がわからず、息をのんだ。それから落ち着くためか、静かに息を吐いている。きっと口元は一文字、言葉を飲み込むときの君の癖だ。
「僕は、君と一緒にはいられないんだって、気づいたんだ。一緒におじいちゃんとおばあちゃんになれない。僕の中の君は、ずっとずっと、最後に見たあの日のままだ。」
それだって、頭で繰り返す映像は、風化と美化で顔だけが目映い。もう、こんなにも思い出せない。切れ長の目。少し高め、小さめの鼻。歯並びが美しくて、ふっくらとした形良い唇。やや細めの顎先と、それでいてまろい頬。わかるのに、顔の全体と結びつかない。
真っ黒な視界では、言葉で理解してきたものなんて、もうわからない。
「考える時間はそれなりにあったから、もうわかっている。最近もう僕に残っている時間はそんなにないって……。」
「やめて!」
 ああ、その声は泣くときのやつだ。でも、それは君もわかっているってことだ。
 事実だとわかるから、遮ったんだ。
 穏やかな冷たい風が、頬をくすぐった。さらさら。しゃら。音がした。君の名の花が揺れる。香る。ああ、そうだ。すべてが、君だ。瞼の射干玉すら振り払う、高雅な藤だ。
「藤乃さん、ねえ、聞いてほしい。」
 ずっと置かれていた手を握る。小さな手だ。細い指だ。温かな、君だ。
「僕は君を残していく。きっと、ものすごく大変な苦労を掛けてしまう。でも、遺したいものは、あんな「家」のことなんかじゃない。そんなものじゃないから、実はね、もう準備したんだ。」
 探りながら、指を絡めた。
「葬式も墓も相続も親戚一同の何もかも、君の手は煩わせないから安心して。子供たちと弁護士両方協力者で、もう話もついてるから。だから、君はハンカチ握りしめて目に押し当ててればいいから。大事なのは、ハンカチだからね。いいかい、ハンカチだよ。」
「……は?」
 力が抜けて、指がほどけた。
「大事な、は、ハンカチ? はぁ? 松太郎、何言ってんの?」
 泣きそうな調子も吹き飛んだようで、今度はぎゅうと指に力が籠る。なんだろう、藤なのだから、もっとしなやかに寄り添ってはくれないものか。いや、僕の藤はこうでなくては。
「ハンカチは、大事だろう。君に泣いて欲しいんだから。ねえ、藤乃さん。僕が思うに、先立つものが遺すものは、雑事に追われることでもなければ、扱いきれない激しい痛みでもないんじゃないかな。」
 よく聞く、葬儀の後に部屋に無気力で座り込む遺族の話。後から込み上げてくる悲しみは慟哭となって、胸を割いてしまう。泣けない記憶に、あとで苦しむこともある。それはきっと幸福な記憶を薄れさせる。そんなのは、望まない。
 ある意味、良かった。唐突でないから、できる限りの準備ができた。
「遺していくものは幸せだった思い出と、あとは、静かで穏やかな悲しみだけでいい。だから、泣いてね。泣いたら、僕を幸せだった思い出にしてね。」
 涙に暮れるなら、淋しいと噎ぶくらいなら、忘れたっていい。でも、幸福な思い出でにしてほしい、僕の我儘だ。でも、できたら。できたら、君がいつか僕を思い出すときは、その時は幸福な思い出の中がいい。
 この話をするのは、僕らが出会った藤の下でと決めていた。そうして、この話を思い出す時は。その思い出は、穏やかな散歩の歩みと、香り、そして寄り添っていた温もりであれ。


 帰宅後、目を腫らしたであろうに冷やしもせず君は息子たちに電話を掛けた。子供たちは、それなりに資産のある家にもかかわらず、とでも言うのだろうか。親戚を見てきた僕にも信じられないほど穏やかで大らかに育ってくれた。遺産を巡る争いだの、犯罪に手を染めるだのというドラマのような展開なんて、案外ないのかもしれない。でもそれは、君の教育の賜物だろう。
ソファーに放置された僕は、考える。初夏の天気の良い日のはずなのに、あんなに君が温かかったこと。もう、わかってしまうな。もうすぐ、夏なのになぁ。去年、次は一緒に宮崎のマンゴーを食べようねって言っていたのに。海にも山にも行かれないな。あぁ、山か。目に青葉は無理でも初ガツオは、食べたいな。初物を食べると寿命が延びるんだっけ。ああ、でもホトトギスは、もうすぐかもしれない。来なくてもいいよ、帰る場所は藤乃の側がいいし、冥府なんて僕の行くところじゃない……なんて、とりとめのないあれこれ。
「やだ、ほんとに話が済んでるじゃない! 」
 奥の部屋から叫び声。なんだか可笑しくなって、笑う。悪戯に成功したようで、面白い。君に驚きをもたらせたなら、なによりだ。単調な闇の中なんて心が死んでしまう。
 踏み抜くかのように床を鳴らす君が、これまた可笑しくて、笑う。
「松太郎さん! 今電話をして確認しました。何かあった時の役割分担はもう決まっているそうですね。私はハンカチ係だと言われましたよ。」
「そうだろう。びっくりした?」
 返事の代わりに、ソファーが揺れる。左半身が、温かい。
「もう、ばか。ばか。ばかぁ……。」
 うっすらと声が滲んでいる。ドッという強めの衝撃。締め付けられる感覚で、脇から君が飛びついてきたんだとわかる。震える肩を探り当て、擦る。強く押される胸の辺りは、濡れて温かい。
 少し顔を君に近づけ、囁く。
「……ハンカチ係さん、頼んでいいかな?」
 ぐい、と襟をとられた。首が下がる。少し痛いな、なんて思っていた僕の耳元で。
もごもご不明瞭な吐息交じりに、ほんの微かに笑って、続いた。
「……やぁよ。」


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私は「私」をディスアピア

 音がする。気配を持つものの音がする。
 ぬばたまの夜、天井を見上げつつ聞いた海鳴りのような、姿なきうごめきの音…。
 家族三人が仲のよかった頃、湯河原温泉海水浴場に行った夜、民宿の床(とこ)の枕で聞いた潮騒を、私はふと思い出した。
 音はひたひたと近づいてきた。私が机を叩いたからだろうか。音は私の書斎めがけて来るようだ。音は書斎の前まで来て止まった。部屋のドアが静かに開く。
「さっきの、なに?」
 と声が告げる。部屋には身体を入れず、ほとんど子音と吐息だけで言ったので、よく聞こえなかった私は、仕方なく背中越しに顔だけ向けて見た。娘は今日も表情がない。沈黙の後、
「お父さん、どうしたの?」
 そこで私はさりげなく、パソコンの画面が娘の目に触れないように留意しながら、体ごと振り返った。私は笑みを浮かべ、
「うん、仕事でね。ちょっとあって、机を叩いただけだよ、でも大丈夫」
 娘は、「机?」と言ったなり、ゆっくり回れ右をして、また「姿なきうごめきの音」になろうとしている。娘が背中で「ちがう…」とか何とか言ったようだが聞き取れない。私は言った。
「あと三十分で出かけるぞ。いいね」
 パソコンを据えたデスクがある書斎に、私はいる。クリーム色のカーテンは開けてあるが、曇天からは光が射さない。朝なのに空気が重い。今日はカウンセリングの日なので、私は年休を取った。出かけるまでに、ちょっとだけ時間があった。私はメールのチェックをした。その結果、私は激高して机を叩いたのだ。
 娘が閉めたドアの横、壁に掛けてある家族写真が目に入った。山頂から一望された絶景。初島・大島・三浦半島・房総半島。写真のバックは富士山。被写体は三人。自然な笑顔。風景は変わった。
 私はパソコンの画面上に開かれているメールを閉じようと、再び画面を見た。それはX探偵事務所からの返信であった。
「お問い合わせの件について」というタイトルがついている。私は私のメールに対する返信内容を読んでショックを受けて、つい取り乱したのだ。私は落ち着いて、自分が出したメールを読み直してみようと思った。気が進まないが、私に落ち度があったか確かめる必要がある。送信済みから選び、クリックする。X探偵事務所に出した自分のメールが、パソコンのモニター画面に広がった。
      ※
 Xさん、早急に調査してほしい人物がいます。我が家のピンチなのです。身辺に頼りになる人物は皆無です。
 誤解のないように断っておきたいことがあり、その後、私の依頼の詳細をお伝えしますが、内容が奇異であることは十分に承知しており、したがって以下の話に信憑性がないと判断されかねないことも想定しておりますが、実際問題、黙って耐えてさえいれば時間が解決するという希望的観測も持てず、そればかりか事態は一刻を争って深刻化しており、かといって警察に相談するほどの実害が発生しているわけでもなく、けれどもこのままではいつかきっと、怖ろしいことが起こることは目に見えていて、つまり、八方ふさがりなのです。とにかくXさんにおすがりするしかないのです。
 まず最初にお断りしておきたいのは、私は決して怪しい人物ではないということです。私は大学院卒の高校英語教師であり、学年主任の経験もあり、したがって自己評価的には世間並みの頭脳とキャリアはなきにしもあらず、それが世間で実際どう評価されるかはさておき、一つだけ言えることは私は怪しくないしおかしくないということです。これだけは以後の話の前提として、信じて頂きたいのです。
 それでは、依頼内容をお伝えします。Xさんに、私の身辺調査をして頂きたいのです。この一文を読んだ時点で、私が長々と前置きを書いた訳をご了解いただけたと思いますが、敢えて打ち返し申し上げます。私は正常です。そして喫緊でお願いします。私自身を尾行し、調査し、不審があれば記録し、報告してください。でないと我が家は崩壊します。
 もっとはっきり申し上げます。ドッペルゲンガーが出たのです。一度や二度ではありません。三度目に、とうとう実害が生じたのです。
 我が家といいましても、父一人娘一人の父子家庭です。娘はこの春、かろうじて、高校三年生になりました。娘は不登校です。きっかけは母親の死でした。
 妻は娘が高一の時にガンで死にました。臆病な女でした。「病院が怖い、一日も入院できない」と言い張るので、乳ガンを告知された当初、私はどうしたらよいか分かりませんでした。余命三ヶ月を宣告されました。元来医者嫌い、いや、そもそも生来臆病な妻が選んだのは代替療法でした。私たちは食餌療法と、自然医学界の権威の先生による指導にすがりました。いいえ、ありとあらゆる療法、サプリに頼ったと言うべきでしょう。
 そもそも、私のドッペルゲンガーが最初に出現したのは今から六年半前、妻がガンを告知される直前の夫婦仲が最悪の状態だった時でした。私自身、仕事で行き詰まっていました。休日は自然の中でリフレッシュしないと精神がもたないという状況だったのです。加えて家庭不和。私はすべてに背を向け、趣味の釣りに逃げていました。
 コスモスが咲いていた頃ですから十月、確か大潮の日の早朝、私が車で横浜の釣り場に出かけると、妻は食事を済ませてから娘とともに電車で横浜に、ショッピングをしようと出かけました。その日、二人は横浜駅で見てしまったのです。私のドッペルゲンガーを。
 妻と娘がそいつを目撃したのは駅のホームだそうです。その男は二人の目の前を通り過ぎたと妻は言いました。あまりのことにてっきり私自身だと思って声を掛けようとしたけれど、愕然としすぎて声が出なかったそうです。ドッペルゲンガーはその後、エスカレーターに乗り、唖然として両足が化石となった妻と娘の視界から、やがて消えたと言います。
 いくら不仲だったとは申せ、妻が私を騙したとは考えられません。最初にその目撃談を聞いた時、私は「私の釣りに対する遠回しな抗議か」と疑いました。けれども、小五の娘が怯えながら「私も見たよ」と繰り返したことが、妻の話の裏書きと思えました。娘が嘘をついていないことは目を見れば分かりました。二人から話を聞き、私自身考え抜き、ついに私は、我々家族の前に姿を現した「私のドッペルゲンガー」の存在を幻だと言い放つだけの気力をなくしたのです。
 衝撃というものはこのように突然襲ってくるものなのだと私は知り、恐ろしさを覚えました。けれどもそいつの出現はその時は一度きりで、前述の如く我々は、その後文字通り命懸けの、ガンとの壮絶な死闘の日々に突入しました。あまりに過酷な消耗戦の日常は、あの日の突発的な出来事をいつしか記憶の彼方に押しやりました。
 私のドッペルゲンガーの我が家族劇への出演は、あの時を限りに終わるかに見えました。ところが意外にも奴は、殊の外執念深い男だったのであり、今にして思えば我々の虚を突くべく、家族の油断を虎視眈々と狙っていたのかもしれません。
 私の妻は四年半の闘病の末、とうとうこの世を去りました。最後まで医者嫌いを貫いたので、私は娘と共に自宅で彼女を看取ったのです。妻は死んだ。私は空っぽになり目の前が真っ暗になり、娘は目の前で死に行く母を見たことがトラウマになりました。
 それから一年してヤツは突如、娘の前に姿を現しました。今回も不気味で卑劣なことに、ヤツは堂々と私に挑んでくるのではなく、ひどく姑息なやり方で現れたのです。
 最初の出現からは六年近く経っていました。それは昨年の八月、娘が二年生の夏の日のことでした。
 娘は、母の死のフラッシュバックによって精神的に病み、学校に行けなくなっていたのです。娘をカウンセラーや心療内科に連れて行くなど、私は現任校の勤務の傍ら、娘のために出来るだけのことをしました。
 それでも娘にとってみれば、時と場所を選ばず、制御不能な形で母親の死ぬ場面の夢や白日夢に襲われるのであり、心療内科での受診は一時の気休めに過ぎませんでした。娘は何も好きこのんで不登校をやっていたわけではなく、ただ娘は現状の存在として存在する以外に存在のしようがなかったのです。娘は悶え苦しんでいました。人が人として在るということ、存在すること。それは何と痛ましいことでしょう。
 けれども夏休みです。部活の生徒にはお盆以外の休みはないものの、本来は登校日以外は学校に行かなくていいという夏休みは、学校に行かなければと思いつつ行けない苦しみから解放される機会であり、不登校の生徒にとっては恩寵の、自分への疚しさから自己を解き放つことが許される期間です。
 娘はその前から徐々に深夜のコンビニには行けるようになっていました。友達とラインのやり取りでコミュニケーションも出来るようになり、私が帰宅すると私とも(すきま風のような声ではありましたが)口がきけるようになったのです。
 八月のある日、私は勤務校に行きました。私の高校は田園都市線沿線の市ヶ尾駅を最寄り駅とする、総合高校です。夏休みにも勤務があります。部活や授業準備、分掌の仕事。致し方ないことながら、実際問題、家の空気は重い。でも、その日の空気は違っていました。それも、娘の状態に好転の兆しがあればこそでした。娘は友達と外出するという。私は久々に心穏やかに、勤務校に行ったのです。
 ところが娘はその日、外出先で見たというのです。娘が友達と待ち合わせしていたホームタウンの駅で、例のドッペルゲンガーを。しかも今回、娘はヤツと目があったのです。
 黄色と青がアクセントカラーの中央林間駅小田急線のホームで、娘は、大和藤沢片瀬江ノ島方面の発車時刻の看板の下で時間を確認して、見上げていた視線を元に戻すと、ヤツは二メートルほどの至近距離に立っていて、娘を見ていたそうです。その時、あまりの衝撃に、娘は卒倒しそうになったというではありませんか。
 娘はその出来事に大変ショックを受けました。けれども私は、娘には酷なことをしていると承知の上で、思い出すたびに動揺する娘をつかまえて、「どんな目だった?」と聞かずにはいられませんでした。娘は即答しました。
「闇夜。何にもない虚無。暗黒。姿かたちはお父さんそのもの。でも、目だけはこの世のものではなかった」
 それ以来、再び娘は引きこもってしまいました。神経症の症状が進み、娘は幻視、幻聴を訴えるようになりました。
 ある時には携帯に電話が入り、ひどく怯えた声で「霊の声が聞こえる」と言って私を狼狽えさせたこともあります。それまで、友達が心配して課題を届けてくれたり様子を見に来てくれたりした時は、娘はパジャマを着替えて玄関まで出ることができましたが、二度目のドッペルゲンガー目撃以来、親友のD子を除けば、誰とも会おうとしなくなりました。娘を責めることはできません。娘が怖がっているのは、私と同じ顔をした、私のドッペルゲンガーだったのですから。
 そんな時なのです。正体不明のあいつからの、情け容赦もない、我が家直撃の、底知れぬ悪意による攻撃に見舞われたのは。予感はありました。娘が私のドッペルゲンガーと目が合ったからには、次のステップとしてドッペルゲンガーの魔手が娘に伸びて来ないとも限りません。しかし、ことがことだけに誰にも相談出来ません。私は無策でした。
 無策の自覚に苦しんだ挙げ句、私は覚悟を決めました。私は、「偽物の私、なりすましの、暗黒の目をした、得体の知れないドッペルゲンガーなどには、娘に指一本たりとも触れさせない」と心に誓ったのです。
 戦いの相手であるドッペルゲンガーとは何なのでしょう。その正体は、結局のところ不明です。私は、正体不明の「私」に、「出現するなら私の前に現れてみろ。取り押さえてやる。ドッペルゲンガーを見ることで死期が早まったってかまわない。娘を脅かすヤツは許さない」と敵意を燃やしました。
 話が長くなりました。事件を語ります。年度初めの四月五日、職員会議、学年会議、分掌会議、教科会議と目白押しの一日で、私は午後になるとさすがに疲労感を感じました。帰宅時のことです。一日の疲れが出て、ハンドルを握りながら私は睡魔に襲われ、何度か眠りそうになりました。やっとのことで帰宅した私は、自宅の駐車場に車を止めるやいなや、堪えきれないままに運転席のシートのレバーを倒し、そのまま眠ってしまいました。
 その時にヤツは出現し、娘を恐怖のどん底にたたき落としたのです。私の部屋から尋常ではない物音が聞こえたので、娘は恐怖に震えながらも二階の自分の部屋から降りてきて、怖々私の部屋のドアを開けたら、そこにはなんと、破壊者がいたそうです。狂気の様相を呈して私の机の上の書類や本や仕事道具、本棚の本を片っ端から投げつけて、部屋を滅茶苦茶にしていたのは私のドッペルゲンガーだったというのです。
 あまりのことに顔色を失って茫然自失となり、足がすくんで震えている娘の気配をふと感じたのか、ヤツは破壊の手を止めて振り返り、あの目で、あの暗黒の虚無の目で娘をジッと見たと言います。恐怖に固まり悲鳴も発せられない娘をしばらく見据えていたヤツは、娘目がけて突進したそうです。思わず腰を抜かした娘の傍らを、風のように通り抜けて、ヤツは消え去ったというのです。
 居眠りから目覚めた私が、眠さが残る頭を時折振りながら車から降りて自宅に戻った時、
「ただいま~」
 と娘に呼びかけたのに返事がなかったので私は嫌な予感がしました。慌てて一階の異変を確かめようとした私は、私の部屋の前でしりもちをついている娘を見つけました。私が娘を見つけたのと娘が悲鳴をあげたのはほぼ一緒だったのですが、私は娘の悲鳴で心臓が飛び上がるほどビックリし、思わず娘に駆け寄り、「どうした?大丈夫か?」と言うと、娘はパニックに陥って絶叫しました。
 私の分身がもはや私を標的とし、挑発し、恐怖する私の様子を眺めては最も劇的な登場の仕方を想像してほくそ笑みつつ、次の出現の機会を狙っていることは明白となりました。ですから、私の行くところにヤツは必ず現れます。私は我が家を震撼させ、娘を恐怖で震え上がらせたヤツ、私の日常への呪詛の塊とも言うべき憎むべきドッペルゲンガーを、何とかつかまえたいのです。
 けれども警察に言っても相手にされないことは目に見えています。部屋が荒らされたと言っても何か盗まれたわけでもないし、犯人は分かっていると言っても、それが私の分身ですと言ったとしたら、警察に私の精神状態を疑われるに決まっています。
 Xさん、私を調べ、見張り、尾行し、私の身辺の聞き込みをし、不審があれば記録し、何か分かったら報告してください。ヤツの居場所をキャッチするか、次の出現を予測出来たら、その先は私がやります。どうかこの依頼を受けてください。一刻を争います。すみやかに調査に入ってください。お願いします。
      ※
 わたし(、 、 、)は「私」のメールを読み終えた。多少の物音はあったが「怖ろしいこと」など起こらなかった。雲が割れて日が差し、窓から入ってきてわたしを照らした。書斎の床に、わたしの影がくっきりと映った。それは当然のことで、何の不思議もない。次にわたしはX探偵事務所からの返信をクリックして、再び読んだ。
           ※
 貴男のご依頼の件は十分に検討させて頂きました。結論から申し上げます。ご依頼には応じかねます。
 失礼ですが、この世にドッペルゲンガーなどは存在しません。貴男のご苦衷、お嬢様の恐怖、察して余りあるとは申せ、貴男は相談相手をお間違えです。
 恐らく貴男は解離性同一性障害、いわゆる多重人格です。私は常識的に考えて、貴男はご自宅の駐車場で眠っておらず、貴男ご自身が部屋を荒らしたのだと推測します。これは妥当かつごく一般的な推理であると信じますし、そうなると我が探偵事務所で取り扱わせていただく案件の範疇を超えております。
 悪いことは申しません。すぐにでも心療内科もしくは精神科を訪れ、正式な診断名をもらい、速やかに治療をお受けになることです。現在の貴男のご病気は、一歩間違うと極度の離人症に発展しかねません。
 先ず貴男が精神の状態を見直されて治療され、それからお嬢様を支えてあげてくださいませ。
      ※
 辱めとも言えるメール?殺伐とした、前代未聞の、悪意さえうかがわれるメール?娘に見せたら「あの目、真っ暗な空洞の目と同じエネルギー」と言うであろうメール?
 そんなことはないだろう。なぜこのメールで腹を立てたか分からない。
 ただ、わたしに診断名など必要ない。治療などもってのほかだ。
「この世にドッペルゲンガーなどは存在しません」、その通りなのだ。娘に声を掛けてあげよう。「怖がらなくていい。もう二度と、ドッペルゲンガーは現れないよ」と。
 日射しが床にわたしの影を作る。うなずけばうなずき、手を挙げたなら影も手を挙げる。
 影はわたしに縛り付けられたまま、わたしと行動をともにすればいいのだ。    






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組員自己紹介

高平 九
 五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする

 この「詠み人知らず」の歌は「これ知ってる?いい歌よねえ」と人から人へと伝えられ、やがて古今集に収められるまで有名になりました。
 ちっぽけな私の大きな夢です。


まめたろう
 僕は高校2年生です。今回、尊敬する方々と共にこの文藝誌に参加できて凄く嬉しいです。
 ドキドキでした。少しでも追いつけるように、えっさほいさ頑張ります。
 もっともっと強くなります。アチョー!
 ありがとうございます。


千秋明帆 
いっけな~い☆遅刻、遅刻!
 私、千秋明帆!どこにでもいる平凡な物書き!
 でも書きたいとこだけ書く癖が直らなくて、もう大変!
 次回、「繋ぎ目不自然問題は考えるな、感じろ」
 お楽しみに!


三角重雄
孤独とは長い付き合いだ。若い頃、本の虫だった私のもとに、孤独はやって来て住み着いた。
 そいつと口を聞くくらいならと、私は、ますます本の虫になった。ところが本によって孤独は太った。
 今では私の孤独は、私の心から出たがって叫ぶ。「ペンをとれ」と。やれやれ。
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巻頭言

 組長の命令で、山田組季刊文芸部誌創刊号の巻頭言を書いております、わたくし、組員の(筆名)三角重雄と申します。他の組員は(筆名)千秋明帆、まめたろう、高平九です。


 さて、ここでクイズです。実はこのメンバーの中に、組長がいます。それは誰でしょう。
 もとい。巻頭言を書いている途中でした。今のは巻頭言の巻頭言と思って忘れてください。


 我々組員はあるシマに出入りするある稼業が縁となってつながりました。我々には掟がひとつあります。「仲間は絶対に…」、その先は勝手につけたして口に出して言ってみてください。ただし、その言葉次第で何か起こっても責任はとれません。


 もとい。掟は組長が語った次の言葉です。「俺たちは年齢も立場も全然違うが、小説創作という一点において平等だ」。だからなんだ?と思った人は口に出して言ってみてください。ただし、その言葉次第で、以下同文。


 という訳で、山田組文芸部誌です。あっ、読者の皆さん、ひとつお願いがあります。どうか、山田組という名前に引かないでください。怖がらずに読んでくださいね。毎号、テーマを決めて組員は短編を書きます。面白そうでしょう?こわくありせん。
 さて、初回のテーマは「ぬばたま」です。


 続いて、二回目のひとつのお願いです。ぜひ四人の作品を最後まで読んでください。そのくもりのない目で読み、感じた心のままに、1位から4位まで決めていただき、https://novela.at.webry.info/のコメント欄に書きに来るか、組員の誰かに告げてください。一種の歌会方式のコンペやります。あなたの票が創刊号優勝者を決めます。


 巻頭言はこれでおしまい。


 ぬばたまの夜が始まるか、ぬばたまの闇に呑まれるか。いざ、暗闇の世界へ!
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